世界の腕時計と日本の腕時計の歴史・量産世界初は1879年軍用にジラール・ペルゴが作った腕時計!

誰でもが持っている腕時計ですが、その前身は持ち歩き用に作られた懐中時計でした。しかし、これは時刻を確認するためには取り出して確認しなければなりませんし、金属製の蓋がついているのでそれを開けなけばなりません。なにか作業している場合に時刻を知りたい場合は、作業を中断する必要がありました。

そうした事情から開発されたのが、腕時計というわけです。腕に巻くことで時刻を確認することは一瞬で済み、何より両手が自由になるというメリットがあります。その腕時計ですが、発祥はいつでどう進化していったのでしょうか。

1.腕時計とは?

腕に巻く時計のことです。種類としては手巻き式、自動巻き、太陽光発電時計、電波時計というものもあります。

手巻き式腕時計はゼンマイ式ともいい、竜頭でゼンマイを巻き上げ針を進めるというものです。

自動巻きというのは、時計内部にある半円形のローターが回転しゼンマイを巻き上げていくことで動く時計を指します。

ソーラー時計は太陽電池で時計を動かすために必要な電力を作り出しています。

電波時計とは標準電波の送信局から送信される原子時計によりデジタル信号を受信し、自動的に時刻を合わせる時計のことです。

昔の腕時計の素材は金属が多かったですが、昨今はセラミックやカーボン、シリコンなどの新素材も使われています。

2.腕時計の歴史

♦腕時計の誕生

腕時計の発祥はいつかといえば1790年。スイスはジュネーブのジャケ・ドロー・アンド・ルショーという時計商がカタログに掲載したのがはじまりだと言われています。

彼は時計商でありオートマタ(ゼンマイ式カラクリ人形)職人でもありました。

現存するものに注目してみると、1806年にパリの宝石商によって作られた「時計を組み込んだブレスレット」が残っているそうです。また、1810年に時計細工師のブレゲがナポリの王妃から注文を受けて作ったといわれる卵型の時計も残っているようです。

しかし、こうした初期の腕時計は王族や富豪などから注文を受けた一点物で、宝飾品としての意味合いが強いもので一般に普及したものはありませんでした。

♦戦争によって実用的な腕時計を必要とされた!

時刻をきちんと確認するための実用的なツールとして腕時計が製品化されたのは、戦争がキッカケです。

そのキッカケは、砲撃を実行する兵士たちの工夫でした。当時、懐中時計を片手に砲撃するタイミングを計っていた兵士たちでしたが、手首に懐中時計を結びつけて使うようになりました。

何とかこれを腕に巻くことができないかという軍の要請で、腕時計の実用化が始まったと言われています。1879年には当時のドイツ皇帝が、ジラール・ペルゴ社に2000本の腕時計を製作依頼したという記録が残っています。

この時計は懐中時計サイズで、腕に装着するためのバンドと保護するための金属製のガードがついているという体裁でした。腕時計とはいえ、ほぼ懐中時計をベースとしているものと推察できますが、とりあえず、時刻を計測できるという実用性を備え、かつ量産した初めての腕時計でした。

この時計はジラールペルゴ社に現物として残されていると言われています。同社はジュネーヴで創立された時計メーカーでしたが、史上初めて腕時計の量産を行ったメーカーとして歴史に残っています。同社はまた1861年に来日し、横浜に商館を置き懐中時計の販売をした最初の時計メーカとしても記録に残っています。

♦カルティエ紳士時計「サントス」がスポーツ・ウォッチの古典となる!

オメガ社は世界に先駆けて1900年に腕時計を商品化しましたが、女性用懐中時計の竜頭の部分を横に付け替えて革のベルトに固定しただけといったものでした。

これはデザイン的にウケなかったようでこのときはまだ懐中時計が世の中の主流でした。

腕時計の中で最初にヒットしたものはフランスのカルティエから発売された紳士時計でした。1911年に「サントス」という腕時計が発売されています。

「サントス」は当時珍しかった角型でした。「飛行船の操縦しているときでも使いやすい腕時計を」という依頼をもとに作られたこの腕時計は、形状は角型で大きさも小型でスポーティでした。

のちにこうしたデザイン面がパリの社交界の目にとまり、市販されるに至ったというわけです。「サントス」は現代でも評価は高く、カルティエの代表製品として売られています。

♦第一次世界大戦は男性用腕時計は懐中時計から完全移行させた!

「ブライトリング社」は、飛行機のパイロット用にストップウォッチ機能のついた世界初のクロノグラフ腕時計を1915年に開発しました。

飛行機のパイロット用や砲撃をする兵士用に開発された腕時計ですが第一次世界大戦後は次第にデザインが洗練され一般のにもどんどん普及してきます。

そうした流れの中で、懐中時計メーカーの多くが腕時計へと転換していき、開発競争も激化していました。そんな中、1926年に画期的な腕時計が登場します。スイスの時計メーカーである「フォルティス」が自動巻き腕時計を発表します。これは世界初の機能でした。

また、ロレックスも、イギリスオイスター社の防水式「オイスターケース」を腕時計に搭載しました。防水機能のついた腕時計は発売当時はほとんど認知されておらず、あまり売れませんでしたが、腕時計をしたままドーバー海峡を泳いで渡るという企画が成功し、認知度が一躍高まったようです。

♦第二次大戦後腕時計はどんどん進化した!

第二次世界大戦が起こると腕時計の機能はさらに進化していきます。飛行機や潜水艦の中といった日常生活とは異なる環境でも使えるように防水性や気密性が強化されたり、手袋をした状態でも調整ができるよう大型の竜頭が採用されたりといった具合です。

第二次世界大戦後にも腕時計の進化は止まりません。


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戦後すぐの1955年ロレックスは、日付が午前0時に自動的に変わる「デイトジャスト」を発売。デイトジャストブランドは現在でも販売されています。


ゼロからわかる[オメガ スピードマスター]SPEEDMASTER完全保存版

1969年にオメガの「スピードマスター」が月面着陸で使用され、世界で初めて月で使用された腕時計となりました。

翌年の1970年にはアメリカ企業ハミルトンが、「パルサー」を発表します。これは世界初のデジタル式の腕時計でした。

ここからはデジタルとクォーツの時代となっていきます。こうして戦後は、便利で実用性のある機能搭載の腕時計が、各社から次々に発売されました。

♦20世紀の腕時計事情!

こうしたなか、スイス、イギリス、ドイツなど主要な腕時計生産国のメーカーは、大量生産のなかで立ち位置が変わっていきます。イギリスのとあるメーカーは生産体制が時代に合わず衰退、市場から脱落。

ドイツメーカーも、低価格帯の製品を主力とせざるを得ませんでした。

アメリカのメーカーも1960年代以降には高級品メーカーは衰退していき、大衆向けブランドのみに存続していく事態となりました。腕時計の世界は量産の時代に突入していったのです。

1990年になると、ドイツで創業したユンハンスが世界初の電波式腕時計「メガ」を発表しました。


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2011年シチズンが世界初の衛星電波式腕時計『エコ・ドライブ サテライトウエーブ』を発表。

その後、腕時計は、クロノグラフ(モータースポーツ向け)やダイバーズウオッチ(マリンスポーツ向け)といったものが開発され、丸型だけでなく薄型や角型のファッションナブルウオッチも発売されるようになりました。

近年だと米Apple社が開発した「アップルウォッチ」は最先端の技術が内蔵されていて、時計機能だけでなく電話番号登録機能、ストップウオッチ機能、ついでに音楽も聴けてマップ機能も搭載しています。腕時計は進化を続け、普段使いの時計として大きな発展をとげています。

3.日本の腕時計の歴史

♦1913年服部時計店が国産初の腕時計「ローレル」を発売!

日本において、懐中時計が工場生産されたのは明治27年(1894年)でした。明治後期になると時計工場の数は20にもなり、腕時計も大正の後期から製造するようになっていきます。

日本では1913年、服部時計店が国内製造の腕時計「ローレル」を初めて発売していますが、その駆動部分は懐中時計と同じものであり、日本の時計の技術水準は第二次世界大戦後まで高いものとは言えませんでした。

昭和に入ると第二次大戦の戦災による設備能力の喪失や損傷によって生産能力は著しく落ちてしまいます。それでも残っていた資材や設備を活用して生産をしようとしましたが、軍需生産をしていた時の設備の酷使、材料の質の低下や労働問題もあってかなり苦しい状況でした。

♦朝鮮動乱による特需景気で復活!

昭和25年(1950年)に朝鮮戦争が起こります。この動乱により、日本の時計産業は持ち直します。国内は特需に沸きました。

この特需景気の風を受けて、高性能の精密機械をスイスから購入。最新の精密機械によって、品質の良い時計を生産できるようになりました。また、この朝鮮戦争によって内需が立ち直り、活性化した国内需要に後押しされて時計産業も復興の糸口が見えはじめたのでした。そして昭和34年(1959年)以降は、この内需が拡がるに従って、急成長をとげることになりました。

♦腕時計の高精度化と生産の合理化


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1955年には国産の腕時計で初の自動巻腕時計「セイコーオートマチック」が登場します。

また、1956年にはセイコーから「マーベル」が発売、1960年にはシチズンから「ホーマー」が発売されました。

これらの製品は、高精度と自動生産を両立させるために構造を合理化したりや部品を大型にしたりすることが試みられていました。ここに精度の高い国産時計が登場することになったのです。

♦1964年東京オリンピックにてセイコーが公式計時機器として採用される!

昭和39年(1964年)には、一つのエポックがありました。それは東京オリンピックがこの年が開催され、公式計時機器として他社との競争があったものの「セイコー」が採用されたことです。

「セイコー」は電子計時を採用していましたが、オリンピック開催中初めて計時に関してのトラブルは1つもありませんでした。これを契機に日本製腕時計がクローズアップされ、世界的にも注目を集めることになりました。ブランドとしての知名度も一挙に上がり、輸出増大の大きなキッカケとなりました。

こうして昭和40年代には、日本の時計産業は、日本を代表する輸出産業の一つとなりました。

♦1969年服部時計店世界初のクォーツ式腕時計「アストロン」を商品化!


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このような動きのなかで、1969年12月にはセイコーがクォーツ式腕時計「アストロン」を発表しました。

これは世界初のクォーツ式腕時計で、誤差は一日に±0.2秒と精巧なものでしでした。

機械技術と電子技術この2つが合わさることによって腕時計の性能や製造技術はは急速に進化しました。日本の時計メーカーはこの二つの先端技術を上手く取り込むことが早かったことから日本は有数の時計製造量を持つ国になりました。

昭和48年(1973年)には機械部分が全くなく、すべて電子で動く液晶デジタルウオッチも、最初に日本で商品化されました。この間にドル・ショックなどの障害はありましたが、それを乗り越え日本の腕時計メーカーは現在に至ります。

まとめ

世界と日本の腕時計の長い歴史を見てきました。1879年に腕時計の量産が世界で初めて始まってから百数十年。その間、腕時計の技術革新は目を見張るばかりです。今では軽くて使いやすいもの、防水のもの、ストップウォッチ機能つき、永久カレンダーつきなどさまざまな機能が搭載されているものとかでどれを選んだらいいのか迷うほどです。

もはや、腕時計は時計の枠組を超えて生活のパートナーにさえなってしまっているようです。あなたの目的にあった製品を選んで、ライフワークに活用して下さいね。

ループタイの発祥や歴史 発祥の地アーリーアメリカン伝説に思いをはせる!

ループタイは、日本では高年齢の人のものと言われていましたが、昨今はデザインも工夫されてきて、若い人にも人気が出てきました。その発祥の地であるアメリカでは1977年、アリゾナの公式首飾りになりました。西部の州では職員や政治家たちが、ループタイを身に着けていると言われます。そんなループタイですが、そのルーツはどこにあるのか興味深いですね。

1.ループタイとは?

紐状のネクタイで留め金をコントロールしながら装着する簡易タイのことです。

日本ではループタイとかコードタイとか呼んでいますが、発祥地とされるアメリカではボロタイとか、ボーラタイと呼んでいます。

装着の仕方は、頭からタイをかぶって留め金を動かしなから長さを調整してつけます。アグレットという金具がひもの先端に接着し、ループタイがほどけたり落ちたりしないようになっています。素材としては七宝、彫金、コイン、天然石、陶器などといろいろな素材が使われています。

2.ループタイの発祥

では、ループタイの発祥地はどこなのでしょう。

♦アリゾナ州ビクター・シーダースタフがループタイの特許申請をした!

1940年代後半、アリゾナ州ウィッケンバーグのビクター・シーダースタフという銀細工師が、ループタイを発明しデザインの特許取得をしたことが、ループタイの発祥として記録はされています。

サンセットという新聞社の記事が、その経緯について詳細に書いています。それによれば、このビクター・シーダースタフが馬に乗っている時、帽子を失わないように首の周りにひもを滑り込ませたというのです。友人たちはからかって「あなたが着ているネクタイ、ビッグで素敵だ」と言ったとか…。

このことからヒントを得て、ビクター・シーダースタフは最初のループタイを作り、特許申請しました。ここが一般的には、ループタイの発祥と言われます。ところが、それはループタイのひも同士をつなぐ金具の形態を特許申請したものにすぎませんでした。

基本となる編まれた皮コードの技術、ならびに精巧な銀細工の技法などは、もともとネイティブ・インディアンの積年積み上げ工夫されてきた技法でした。こうした先人の技法の下地があったからこそ、ビクター・シーダースタフも作品を作り、それを特許申請できたのでしょう。つ

ループタイの発祥においてネイティブアメリカンの基礎技術の影響が多分にあったと言えるでしょう。

♦ネイティブアメリカンのジュエリー伝説

ループタイの起源は、いまだにはっきりとしていないのが現状です。しかし、いくらビクター・シーダースタフがループタイを発明しその特許を得たとしても、アリゾナに住む高品質のホピ芸術を創造しているネイティブアメリカンホピ族や、ニューメキシコに住むナバホ族などの高品質なインディアンジュエリー伝説を軽視したり、無視し避けてしまうことはできないでしょう。

そういた意味からも、ビクター・シーダースタフが最初に発明したループタイが「最初のループタイ」と簡単に決めるのは、ちょっと立ち止まって考えた方がいいかもしれません。こうしたネイティブアメリカンたちの先人が実際にシルバーアート造形の基礎を作り、その概念を形にしていった最初の人であったことは自明のことだからです。そこには、当然ループタイも入っています。

ビクター・シーダースタフがループタイの所有権を主張し「商品化した」人物であったことは記録に残っている以上、間違いがないことでしょう。しかし、それがループタイの発祥ルーツかといえば難しいところす。ネイティブ・アメリカンの技術の積み上げがあったからこそ、その上に、特許申請が受理されたのでしょう。つまり、ビクター・シーダースタフは商業上での起源ではあるでしょうが、ループタイの精神的ルーツはアーリー・アメリカンたちに行き着くのではないでしょうか。

♦日本の歴史

1973年、日本では省エネルックが流行し、その折ネクタイの代用としてループタイは着用され始め、それをキッカケに普及もし始めました。現在はクール・ビズ対策として会社員もつけたり、若い人もクールなデザインを身に付けるようになりました。しかし、その普及率は発祥地アメリカなどと比べれば、低い状況でしょう。政治家や会社トップなども余りつけている姿を余りポピュラーに見られず、いまだオフィスではネクタイ至上主義が優先されているの感も否めません。

ループタイは、ともするとオフィス使いはご法度という会社もあるようで、ビジネス上での普及率はそんなに高いとはいえない状態が続いています。クールビス的な装いには、ループタイは胸元をエレガントに見せるピッタリなアイテムと思えるのですが、オフィシャルアイテムとして敬遠され気味なのは、装飾金具やアグレットのデザインがシックでさりげない製品が少ないからでしょうか。あるいは、日本では男性がアクセサリーをつける習慣が長いことなかったため、男性自身に戸惑いがあるのかもしれません。

まとめ

ループタイの精神的なルーツといえば皮ひもの編み方やシルバー細工などのテクニックで人々の心を揺さぶったアーリーアメリカンのホピ族や、ナバホ族などのシルバージュエリー伝説が気に掛かるところです。こうしたループタイの発祥地アーリーアメリカンの地に思いを馳せながら、とりあえずは、プライベートな服にループタイを取り入れてみたらいかがでしょうか。

ちなみに、ループタイは、ボタンダウンシャツとの相性がいいといわれています。何となく躊躇っている方は、小ぶりでシックなシルバー彫金系、そしてアグレットが目立たないものをチョイスなさることをお勧めします。

指輪・リングの起源と歴史 3,000年前頃に指輪は存在していた!結婚指輪はローマが発祥地!

現在では結婚式での指輪交換は当たり前のことになっていますが、そこには古代ローマ時代からの伝説が生きています。指輪交換には「誓い」や「戒め」の意味もあり、それが形を変えて現在にまで伝わっているというのは神秘的ですらあります。指輪の発祥・歴史について考えてみました。

1.指輪とは?

いうまでもありませんが、円形で指にはめる装飾品のことを「指輪」といいます。男性でも女性でも身にけることができるアクセサリーです。

材質は現在では貴金属が多いですが、かつては、素材に鉄、真鍮、青銅などの金属や、メノウやヒスイなどの石、べっ甲、象牙なども使用していました。

ひすいやメノウなどは、くり抜いて加工していました。しかし、今では、こうしたものは市場では余り見受けられません。現在よく利用されている金属は金やブラチナなどの貴金属で、カジュアルなものでは銀なども使われます。他に、プラスチック、木、ガラス、宝石、最近では、アレルギー反応を起こさないという視点から、チタン指輪も人気です。

指輪の意味ははめる指はよって違ってきます。結婚指輪は薬指にはめ、結婚指輪以外の指輪は通常は中指にはめます。婚約指輪は婚約する際に男性から女性に贈る指輪で、こちらも結婚の証として男女で交換します。日本では左手の薬指が一般的ですが、国によっては右手の薬指にはめることもあります。

2. 指輪の歴史

2010年にイスラエルで発掘された金や銀を使った宝飾品は3,000年前頃のものと鑑定されましたが、そこには指輪もありました。3000年前にすでに指輪が装飾品として存在したことになります。

また、「親指に指輪をはめる風習」が古代ローマ時代にあったとそうです。弓を引くときに親指を保護するために用いられていたといわれています。この親指にはめる指輪は「サムリング」と呼ばれていますが、「サム」の意味は英語で「親指」のこと。「親指に指輪をはめると、願いが叶う」という意味もあったとか…。

3.結婚指輪

指輪といえば、結婚指輪や婚約指輪を思い浮かべるひとも多いですよね。

一説によると、花嫁が逃げないように紐でつないでいた名残だと言われています。

ケルト人の間では結婚相手の髪で編んだ指輪を作り、女性にはめさせた文化があったとか…。

こう考えると、やはり結婚指輪には「束縛」の意味がありそうですね。

♦ローマ時代の指輪は最初は鉄だった!

ローマは結婚指輪の発祥地ともいわれていますが、その結婚指輪は鉄でできていたと言われています。

これはギリシャ神話の伝説からきています。プロメテウスというのは天界の火を盗んだということで、ゼウスからその罰として岩山に鎖ではりつけの刑を受けることになりましたが、後にヘラクレスがプロメテウスを助け解放したという伝説です。しかし、この「岩山に鎖ではりつける」という誓いが生きていたため、岩山の石の破片と鎖の鉄で指輪を作り「ゼウスへの服従の誓い」としました。

この伝説に従って、結婚指輪は女性が男性に対して忠誠を誓う証としてはめられました。薬指にはめるようになった理由については、ローマ時代では「薬指は心臓とつながっている」という伝説が信じられていたからです。体の中で一番重要な場所に、誓いの意味が込められていた指輪をはめることで、その誓いを現実化させようとしたのでした。

この時代は結婚指輪をはめられたのは女性でしたが、当時の力関係では男性の力が優位だったからでしょう。

♦結婚指輪を交換するようになった由来は?

結婚指輪を男女で交換するようになったのは9世紀になってからでした。それは、ローマ教皇であるニコラウス1世の結婚から始まります。

ニコラウス1世が結婚した時、花嫁に金の指輪、花婿に鉄の指輪を交換したと伝えられています。これが結婚指輪交換の始まりで、この後、この結婚指輪の交換の意味と意義は広まり、13世紀には現代のように男女双方で結婚指輪を交換することが一般的となってきました。

もともと指輪には宝石は付いていなかったのですが、中世に裕福な人たちの間で宝石のついた指輪が贈られるようになりました。

15世紀になるとダイヤモンドが指輪に取り付けられるようになりました。当初は、まだ研磨技術が発達しておらず天然の形のままにあしらわれていたそうですが、結婚における指輪交換が一般的になってくると、それに比例してダイヤのカッティング技術も向上したと言われています。

4.日本での指輪

日本では指輪は縄文時代には出土はありませんでした。弥生時代・古墳時代に全国の遺跡から出土したものの、出土した指輪は大陸の品だとする説と、木などの有機質の指輪は出土されなくとも使用されていた可能性はあったという説がありますが考古学上からも定説はない状態です。

そして、それ以降は、装身具凍結時代となり全く出土することはなくなって、次に指輪の名前が現われるのは、16世紀安土桃山時代になってからのことです。

♦指輪を着けた支倉常長の肖像画!

南蛮貿易によってもたらされたエキゾチックな装身具は、キリシタン大名やその周辺の人々を魅了しました。

また、江戸時代初期の慶長年間に伊達政宗がヨーロッパへ送った支倉常長(はせくら つねなが)がイタリアで描かれたという肖像画には、指輪を着けた油絵が残されています。

しかし、支倉常長帰国後にはすでに禁教令が出されており、他の装身具類同様、指輪や一般的には普及しませんでした。さらに、鎖国令によって異国からやってきた指輪への関心も途絶えてしまいました。

♦結婚指輪も装飾品も戦後に入って本格化!

西洋では指輪は男性にとってもなじみあるものでしたが、日本の男性には宝飾品を身につける文化がなく、そのため指輪の普及や定着にはさらに時間が必要でした。

結婚式様式も考え方も異なっていたため、結婚指輪という概念すら定着しなかったのです。結婚指輪の定着は戦後、人々が西洋の文化に触れる機会が増えてからになります。

戦後、生活様式も西洋化していくにつれて結婚指輪交換の習慣も少しづつ受け入れられていきました。昭和40年代に入ると、教会での挙式は若い女性の憧れともなり一気に結婚指輪文化は広がっていきました。

まとめ

3,000年前頃に、既に金・銀で作られたという伝統を持つ指輪!また、古代ローマから発祥したといわれる結婚指輪も、長い歴史の中で少しずつ形を変え結婚のセレモニーとなっていきました。

指輪には、ギリシャ神話から発祥した「拘束」や「誓い」の意味も若干残っている感もありますが、それでもその悠久の時間の重みには圧倒されますね。たかが指輪、されど指輪。あなたが身につけている指輪から、古代ローマからの伝説が現在にまで息づいていると思うとロマンも広がりますね。

ラペルピンとは?どのような歴史があるのか。フラワーホールの由来は?

ラペルピンは最近ではカジュアルショップでも見かけるようになり、メンズアクセサリーでも人気です。デザインによってラフに使えるし、結婚式や二次会などに使っても華やかな雰囲気を出すこともできるでしょう。使い道もアイディア次第のラペルピンですが、もうひとつ使い方が分からないという声もあります。そこで、ラペルピンの由来や歴史をたどってみました。

1.ラぺルピンとは何?

スーツの衿には下えりに穴が開いていますが、ここに会社の社章をつけたりする人も多いでしょう。議員バッジとして政治家も活用していますよね。この下えりのことをラぺルといい、そこに付けるピンを総称して「ラぺルピン」といいます。その形態としてはピンス、ハットピン、ピンブローチなども同類のものです。

「ピンズ」は後ろの部分に短い針が出ているものです。社章などが多いですが、装飾用でもラフな抽象的なデザインの「ピンス」もあります。

ハットピンはハットが落ちないように止めるためのピンですが、デザインだけが違うだけで、ほとんどラペルピンと変わりません。

ピンブローチというのは巻きスカートなどを留めたり、そのままブローチとしてセーターやシャツなどに付けることができ、こちらも構造的には違いはなくデザインだけが変わっているだけなので、後は合うか合わないかで決めていただければいいでしょう。

「ラペルピン」として一般的なのは長い針があり、留め金の部分も飾りの一部として使われるものです。チェーンなどが付いているラベルピンもあります。

2.ラペルピンの種類は?

ラペルピンの種類を大きく分けると、ピンズ、バーがついているもの、チェーンなどがついているものに分けられます。市販されているものを見ても、彫金だけのものとか石やガラスを埋め込んだものとかいろいろです。また、布やファブリック系のもの、珍しいものとして組みひものラペルピンなどもあります。

礼装用としては真珠。夜の場合は黒蝶貝やオニキスなどを使ったラペルピンもあります。

3.ラペルピンの歴史

ラペルピンの由来は諸説あるようですが、一説には古代エジプト時代に誕生したといわれています。

敵味方から自分の一族などを識別するために、紋章などを衣服につけて敵味方が分かるようにしたという説が残っています。紋章をつけるというのは、それ以降の歴史のなかでもさまざまな方法で行われてきました。

スーツの穴にラペルピンをつけるというのは、スーツの歴史との関わりにも触れなければならないでしょう。

♦フラワーホールは第一ボタンホールの名残り!

そもそもラぺルというのは背広の下エリのことをいいますが、なぜそこにホールがあるのかという事も不可解でしょう。

実はこの穴のある下えりのシングルジャケットは、もともと軍服のような詰えりだったといわれています。つまり、このホールはボタンホールの名残りであるというのです。

本来ならば、その下の2番目、3番目のボタンホールもあるはずだったのですが、その2つは詰えりが現在の開キンシャツえりのように折り返された時点で不要になり消失しました。下えりラペルの第一ボタンホールだけが残ったという説です。

♦第一ボタンホールが「フラワーホール」とも呼ばれるようになった由来は?

たまたまある国の王族がこのホールに花を挿し、そのアイディアが支持されていて、現在でも結婚式の時には、花嫁に求婚したブーケから花を選び、花嫁にさしてもらうという儀式が継承されています。

このように昔は詰えりの第一ボタンであるボタン穴は、後に花飾りを挿す用途に使われたことから、この第一ボタンのホールは「フラワーホール」とも呼ばれるようになったといわれています。

さらに、オーダーメイドのスーツには、ラペルピンのホールの裏側には花の茎をとめるループやポケットがあるものも見られます。

♦ラペルピンのバーは茎をささえる機能があった!

こうしてフラワーホールは、花を挿すかわりに社章を挿したり、花を模してつくられたアクセサリーであるラペルピンを挿したりするために活用されています。

ラペルピンの長いバーは見せるためのものではなく、茎をささえる存在として花の向きを保つ機能を持っていたとも言われます。確かにそうすれば、花はクルクル回らないで安定できます。そういう意味から考えても、ピンブローチ形式のラペルピンは、機能的にも優れていると言えるでしょう。

まとめ

いかがでしょうか。ジャケットの下えりについているホールは、もともとは詰エリだった頃の名残りでした。

それは「フラワーホール」とも呼ばれ、結婚式にはそこにブーケの花束から選んだ花をさす風習があり、ラペルピンは「フラワーホール」を利用して花の代わりにつけます。

ピンだけのもの、長い足がついているもの、チェーンなどがついているものどいろいろなタイプがありますから、あなたの個性で活用してみてくださいね。

世界と日本のメガネ・サングラス・フレームの歴史 最初のメガネはいつできた?発明者は誰?

メガネがなくなると、近視の人も老眼の人も困りますね。メガネは私達の生活の空気のようなもの。年を取っても本を読んだり刺繍や絵を書くことが楽しめるのもメガネがあればこそでしょう。サングラスも紫外線を避け眼を防護するために、大切なアイテムです。これらのアイテムの歴史を、フレームを含めて遡ってみましょう。

1.メガネとは?

言うまでもないかもしれませんが、眼鏡(めがね)とは目の屈折による調節を補正したり、目を保護したりするために目に着ける道具のことです。老眼のためのメガネや近眼のためのメガネ、また乱視などのためのメガネなどもあります。初期の眼鏡は凸レンズを使っていて、遠視と老視を矯正できました。

2.メガネの歴史!

メガネといえば、レンズの発明がその発祥でしょう。レンズと呼べるようなものが歴史に登場したのは紀元前3世紀頃です。

エジプトやバビロニア、ローマ、インド、中国といったあたりで使われていたようです。しかしこのときの用途は太陽の光を集めて火をおこすといった用途で使われており、視力補正のための物ではありませんでした。

♦「リーディングストーン」補正用レンズの最初の発明

9世紀頃、イスラムの科学者アッバース・イブン・フィルナスによって「リーディングストーン」といわれる拡大レンズが発明されます。補正用レンズの最初の発明といえるものです。

このレンズは読書用で、本の上に直接置いて文字を拡大するために活用されました。これは文字の上に直接置いて使用したので、メガネとは区別されています。

♦顔につけるメガネの登場は13世紀中頃のヴェネツィア!

13世紀中ごろになるといよいよ、顔にかけるメガネが登場します(耳にかけて使うタイプはまだまだ先ですが)。

登場するのはイタリア。当時のヴェネツィアでは高いガラス製造技術を背景に、精度の高いレンズが製造されていました。このメガネは補読器と呼ばれて凸レンズがついていて、縁は鉄や木製で作られ老眼用に使用されました。

♦ツル式のメガネが普及するのは18世紀後半から19世紀初頭!

17世紀になると、ひもを使い耳にかけて使うメガネが出てきます。このつる式メガネはロンドンの眼鏡商エドワード・スカーレットという人物が開発したといわれています。ただし、特許まで取得したものの、実用としては適さず普及しませんでした。

♦19世紀にやっとツル巻き式テンプルめがねが登場!

19世紀になるとパンスヌという鼻にはさんで使うメガネやローネットという手持ち式のメガネが登場します(メガネのフレームに手に持つための長い柄が付いている)。

そしてついに「巻きツル式の眼鏡テンプルメガネ」も登場しました。

20世紀に入ると、2度の世界大戦はメガネの発展にも大きく影響し、実用性を備えた現代のメガネの基本型ができあがります。その後、さまざまなデザインのメガネが開発されていますが、基本はこのテンプルメガネから派生していったものです。

3.日本のメガネの歴史

日本ではいつからメガネがあるのかというと、16世紀半ばの戦国時代に記録があるようです。

当時、周防(現在の山口県)を治めていた大名である大内義隆にキリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルが贈ったのが最初といわれています。あのザビエルが日本におけるメガネの歴史のはじまりに関わっていたようです。

以後、長崎で初めてメガネが作られました。材質はべっ甲、水牛の角、馬の爪などで、京都、大阪、江戸などで売りに出されるようになりましたが、単独で売られたわけでなく他の商品と一緒に並べられていました。

というわけで戦国時代に日本に入ってきたメガネですが。レンズを作るのはなかなか難しかったのか、明治時代に入るまで日本ではメガネは生産されていませんでした。明治時代になって朝倉松五郎という人が政府の命を受けてヨーロッパに渡りメガネ作りを学んだことでメガネが生産されるようになったようです。

また、明治期には、さきほど紹介した「ローネットメガネ」が鹿鳴館の貴婦人の間で流行しました。

4.サングラスの歴史!

♦サングラスとは?

サングラスとは、ご存知のように強い日差しから目を護るためのものです。紫外線をカットしたり、まぶしさを抑えるために使用します。

英語のスペリングから想像すると、太陽光から眼を守る保護具という意味合いを感じられます。サングラスは可視光線透過率の低いレンズを使用し、外から目が見えない仕様のものをサングラスとしています。

♦サングラスの発祥!

サングラスの発祥ですが、北極のあたりに住むエスキモーの人々が太陽の光から目を守るために使っていた遮光器が原型といわれています。太陽光と雪面からの照り返しが強く目を守る必要に迫られてのことかもしれませんね。

また、ローマの皇帝ネロが、エメラルドを利用して作ったサングラスを使用し、剣闘技を観戦したという説もあります。

そんなサングラスが最初に大量生産されたのは1929年のことです。アメリカの事業家が、眼を守るためという光学的な観点から、サングラスを安価に販売したことで一般に普及していきました。

♦1960年代のサングラスはガラス製でカラーも濃かった!

1960年代はシンプルで簡素なサングラスが人気でした。クラシック・スタイルとして現在も人気が高いタイプです。この頃のサングラスのレンズは、主にガラス製で色もグレーやグリーン、ブラウンとなどの色が主流でした。

1980年代に入るとスポーツにも対応したサングラスに人気が出てきます。フレームの種類も多様化し、ナイロンやカーボンフレームなども採用されるようになって、軽くてかっこいいサングラスが入手できるようになりました。

5. メガネフレームの歴史!

♦すべては「単玉眼鏡」から始まった!

メガネフレームは13世紀に発明された拡大用レンズ「リーディングストーン」の周辺を真鍮や鉄、あるいは動物の角などと組み合わせ持ちやすくして、そこに柄をつけた「単玉眼鏡」。これがフレームとしての第一号でしょう。

14世紀になると、2つの「単眼眼鏡」をリベットで固定したものが現れます。15世紀には「ハサミ眼鏡」というタイプが登場。これらの素材は鉄、木、ニッケルなどの合金でした。

♦ひもつき眼鏡は16世紀にお目見え!

16世紀になると「ヒンジ眼鏡」といって、鼻幅に合わせて左右を調整できる眼鏡が登場しました。また、メガネの歴史と少しかぶりますが眼鏡にひもをつけて耳にかける「ひもつき眼鏡」も普及しました。18世紀になると、テンプルの延びる「つる巻き眼鏡」が発明され、蝶番(ちょうつがい)がついて折りたためるようになった金属性の折りたたみテンプルも登場して、現在の眼鏡に近いものになりました。

初期の頃のフレームの素材は、鉄、竹、樹木、べっ甲、皮、象牙などの天然素材でした。また「真鍮、「洋白」といった銅合金も使用されましたが、緑青を出す欠点があり「ニッケル合金」が登場しました。

鉄にクロムとニッケルを加えた「ステンレス」は高い耐食性があり好評でしたが、一部にニッケルアレルギーを起こす人もいるため素材はチタンが活用されたりしました。近年になると、樹脂素材も使われ、綿花や石油由来物を原料とする「半合成樹脂」に樟脳(しょうのう)を加えた「セルロイド」や、酢酸を加えた「アセテート」も使用されています。ごく最近では、ナイロンやカーボンフレームなども採用されています。

まとめ

眼鏡は、光を集めるレンズから始まりました。それを何とか眼鏡というものに実用化したいという先人の工夫は、単玉眼鏡、ひもの眼鏡、鼻眼鏡、ツル巻き眼鏡までたどり着きます。

それは、先人たちの工夫の賜物でした。フレームの材料も鉄や木から始まり、真鍮、洋白とか重い素材が多かったのですが、現在のメガネフレームは樹脂製のものが多く、より軽量で使いやすい仕様となっています。今は当たり前に使用しているメガネですが、歴史を振り返ると改めて視力調節してくれる眼鏡の便利さに感謝してしまいますね。