指輪・リングの起源と歴史 3,000年前頃に指輪は存在していた!結婚指輪はローマが発祥地!

現在では結婚式での指輪交換は当たり前のことになっていますが、そこには古代ローマ時代からの伝説が生きています。指輪交換には「誓い」や「戒め」の意味もあり、それが形を変えて現在にまで伝わっているというのは神秘的ですらあります。指輪の発祥・歴史について考えてみました。

1.指輪とは?

いうまでもありませんが、円形で指にはめる装飾品のことを「指輪」といいます。男性でも女性でも身にけることができるアクセサリーです。

材質は現在では貴金属が多いですが、かつては、素材に鉄、真鍮、青銅などの金属や、メノウやヒスイなどの石、べっ甲、象牙なども使用していました。

ひすいやメノウなどは、くり抜いて加工していました。しかし、今では、こうしたものは市場では余り見受けられません。現在よく利用されている金属は金やブラチナなどの貴金属で、カジュアルなものでは銀なども使われます。他に、プラスチック、木、ガラス、宝石、最近では、アレルギー反応を起こさないという視点から、チタン指輪も人気です。

指輪の意味ははめる指はよって違ってきます。結婚指輪は薬指にはめ、結婚指輪以外の指輪は通常は中指にはめます。婚約指輪は婚約する際に男性から女性に贈る指輪で、こちらも結婚の証として男女で交換します。日本では左手の薬指が一般的ですが、国によっては右手の薬指にはめることもあります。

2. 指輪の歴史

2010年にイスラエルで発掘された金や銀を使った宝飾品は3,000年前頃のものと鑑定されましたが、そこには指輪もありました。3000年前にすでに指輪が装飾品として存在したことになります。

また、「親指に指輪をはめる風習」が古代ローマ時代にあったとそうです。弓を引くときに親指を保護するために用いられていたといわれています。この親指にはめる指輪は「サムリング」と呼ばれていますが、「サム」の意味は英語で「親指」のこと。「親指に指輪をはめると、願いが叶う」という意味もあったとか…。

3.結婚指輪

指輪といえば、結婚指輪や婚約指輪を思い浮かべるひとも多いですよね。

一説によると、花嫁が逃げないように紐でつないでいた名残だと言われています。

ケルト人の間では結婚相手の髪で編んだ指輪を作り、女性にはめさせた文化があったとか…。

こう考えると、やはり結婚指輪には「束縛」の意味がありそうですね。

♦ローマ時代の指輪は最初は鉄だった!

ローマは結婚指輪の発祥地ともいわれていますが、その結婚指輪は鉄でできていたと言われています。

これはギリシャ神話の伝説からきています。プロメテウスというのは天界の火を盗んだということで、ゼウスからその罰として岩山に鎖ではりつけの刑を受けることになりましたが、後にヘラクレスがプロメテウスを助け解放したという伝説です。しかし、この「岩山に鎖ではりつける」という誓いが生きていたため、岩山の石の破片と鎖の鉄で指輪を作り「ゼウスへの服従の誓い」としました。

この伝説に従って、結婚指輪は女性が男性に対して忠誠を誓う証としてはめられました。薬指にはめるようになった理由については、ローマ時代では「薬指は心臓とつながっている」という伝説が信じられていたからです。体の中で一番重要な場所に、誓いの意味が込められていた指輪をはめることで、その誓いを現実化させようとしたのでした。

この時代は結婚指輪をはめられたのは女性でしたが、当時の力関係では男性の力が優位だったからでしょう。

♦結婚指輪を交換するようになった由来は?

結婚指輪を男女で交換するようになったのは9世紀になってからでした。それは、ローマ教皇であるニコラウス1世の結婚から始まります。

ニコラウス1世が結婚した時、花嫁に金の指輪、花婿に鉄の指輪を交換したと伝えられています。これが結婚指輪交換の始まりで、この後、この結婚指輪の交換の意味と意義は広まり、13世紀には現代のように男女双方で結婚指輪を交換することが一般的となってきました。

もともと指輪には宝石は付いていなかったのですが、中世に裕福な人たちの間で宝石のついた指輪が贈られるようになりました。

15世紀になるとダイヤモンドが指輪に取り付けられるようになりました。当初は、まだ研磨技術が発達しておらず天然の形のままにあしらわれていたそうですが、結婚における指輪交換が一般的になってくると、それに比例してダイヤのカッティング技術も向上したと言われています。

4.日本での指輪

日本では指輪は縄文時代には出土はありませんでした。弥生時代・古墳時代に全国の遺跡から出土したものの、出土した指輪は大陸の品だとする説と、木などの有機質の指輪は出土されなくとも使用されていた可能性はあったという説がありますが考古学上からも定説はない状態です。

そして、それ以降は、装身具凍結時代となり全く出土することはなくなって、次に指輪の名前が現われるのは、16世紀安土桃山時代になってからのことです。

♦指輪を着けた支倉常長の肖像画!

南蛮貿易によってもたらされたエキゾチックな装身具は、キリシタン大名やその周辺の人々を魅了しました。

また、江戸時代初期の慶長年間に伊達政宗がヨーロッパへ送った支倉常長(はせくら つねなが)がイタリアで描かれたという肖像画には、指輪を着けた油絵が残されています。

しかし、支倉常長帰国後にはすでに禁教令が出されており、他の装身具類同様、指輪や一般的には普及しませんでした。さらに、鎖国令によって異国からやってきた指輪への関心も途絶えてしまいました。

♦結婚指輪も装飾品も戦後に入って本格化!

西洋では指輪は男性にとってもなじみあるものでしたが、日本の男性には宝飾品を身につける文化がなく、そのため指輪の普及や定着にはさらに時間が必要でした。

結婚式様式も考え方も異なっていたため、結婚指輪という概念すら定着しなかったのです。結婚指輪の定着は戦後、人々が西洋の文化に触れる機会が増えてからになります。

戦後、生活様式も西洋化していくにつれて結婚指輪交換の習慣も少しづつ受け入れられていきました。昭和40年代に入ると、教会での挙式は若い女性の憧れともなり一気に結婚指輪文化は広がっていきました。

まとめ

3,000年前頃に、既に金・銀で作られたという伝統を持つ指輪!また、古代ローマから発祥したといわれる結婚指輪も、長い歴史の中で少しずつ形を変え結婚のセレモニーとなっていきました。

指輪には、ギリシャ神話から発祥した「拘束」や「誓い」の意味も若干残っている感もありますが、それでもその悠久の時間の重みには圧倒されますね。たかが指輪、されど指輪。あなたが身につけている指輪から、古代ローマからの伝説が現在にまで息づいていると思うとロマンも広がりますね。

ラペルピンとは?どのような歴史があるのか。フラワーホールの由来は?

ラペルピンは最近ではカジュアルショップでも見かけるようになり、メンズアクセサリーでも人気です。デザインによってラフに使えるし、結婚式や二次会などに使っても華やかな雰囲気を出すこともできるでしょう。使い道もアイディア次第のラペルピンですが、もうひとつ使い方が分からないという声もあります。そこで、ラペルピンの由来や歴史をたどってみました。

1.ラぺルピンとは何?

スーツの衿には下えりに穴が開いていますが、ここに会社の社章をつけたりする人も多いでしょう。議員バッジとして政治家も活用していますよね。この下えりのことをラぺルといい、そこに付けるピンを総称して「ラぺルピン」といいます。その形態としてはピンス、ハットピン、ピンブローチなども同類のものです。

「ピンズ」は後ろの部分に短い針が出ているものです。社章などが多いですが、装飾用でもラフな抽象的なデザインの「ピンス」もあります。

ハットピンはハットが落ちないように止めるためのピンですが、デザインだけが違うだけで、ほとんどラペルピンと変わりません。

ピンブローチというのは巻きスカートなどを留めたり、そのままブローチとしてセーターやシャツなどに付けることができ、こちらも構造的には違いはなくデザインだけが変わっているだけなので、後は合うか合わないかで決めていただければいいでしょう。

「ラペルピン」として一般的なのは長い針があり、留め金の部分も飾りの一部として使われるものです。チェーンなどが付いているラベルピンもあります。

2.ラペルピンの種類は?

ラペルピンの種類を大きく分けると、ピンズ、バーがついているもの、チェーンなどがついているものに分けられます。市販されているものを見ても、彫金だけのものとか石やガラスを埋め込んだものとかいろいろです。また、布やファブリック系のもの、珍しいものとして組みひものラペルピンなどもあります。

礼装用としては真珠。夜の場合は黒蝶貝やオニキスなどを使ったラペルピンもあります。

3.ラペルピンの歴史

ラペルピンの由来は諸説あるようですが、一説には古代エジプト時代に誕生したといわれています。

敵味方から自分の一族などを識別するために、紋章などを衣服につけて敵味方が分かるようにしたという説が残っています。紋章をつけるというのは、それ以降の歴史のなかでもさまざまな方法で行われてきました。

スーツの穴にラペルピンをつけるというのは、スーツの歴史との関わりにも触れなければならないでしょう。

♦フラワーホールは第一ボタンホールの名残り!

そもそもラぺルというのは背広の下エリのことをいいますが、なぜそこにホールがあるのかという事も不可解でしょう。

実はこの穴のある下えりのシングルジャケットは、もともと軍服のような詰えりだったといわれています。つまり、このホールはボタンホールの名残りであるというのです。

本来ならば、その下の2番目、3番目のボタンホールもあるはずだったのですが、その2つは詰えりが現在の開キンシャツえりのように折り返された時点で不要になり消失しました。下えりラペルの第一ボタンホールだけが残ったという説です。

♦第一ボタンホールが「フラワーホール」とも呼ばれるようになった由来は?

たまたまある国の王族がこのホールに花を挿し、そのアイディアが支持されていて、現在でも結婚式の時には、花嫁に求婚したブーケから花を選び、花嫁にさしてもらうという儀式が継承されています。

このように昔は詰えりの第一ボタンであるボタン穴は、後に花飾りを挿す用途に使われたことから、この第一ボタンのホールは「フラワーホール」とも呼ばれるようになったといわれています。

さらに、オーダーメイドのスーツには、ラペルピンのホールの裏側には花の茎をとめるループやポケットがあるものも見られます。

♦ラペルピンのバーは茎をささえる機能があった!

こうしてフラワーホールは、花を挿すかわりに社章を挿したり、花を模してつくられたアクセサリーであるラペルピンを挿したりするために活用されています。

ラペルピンの長いバーは見せるためのものではなく、茎をささえる存在として花の向きを保つ機能を持っていたとも言われます。確かにそうすれば、花はクルクル回らないで安定できます。そういう意味から考えても、ピンブローチ形式のラペルピンは、機能的にも優れていると言えるでしょう。

まとめ

いかがでしょうか。ジャケットの下えりについているホールは、もともとは詰エリだった頃の名残りでした。

それは「フラワーホール」とも呼ばれ、結婚式にはそこにブーケの花束から選んだ花をさす風習があり、ラペルピンは「フラワーホール」を利用して花の代わりにつけます。

ピンだけのもの、長い足がついているもの、チェーンなどがついているものどいろいろなタイプがありますから、あなたの個性で活用してみてくださいね。

世界と日本のメガネ・サングラス・フレームの歴史 最初のメガネはいつできた?発明者は誰?

メガネがなくなると、近視の人も老眼の人も困りますね。メガネは私達の生活の空気のようなもの。年を取っても本を読んだり刺繍や絵を書くことが楽しめるのもメガネがあればこそでしょう。サングラスも紫外線を避け眼を防護するために、大切なアイテムです。これらのアイテムの歴史を、フレームを含めて遡ってみましょう。

1.メガネとは?

言うまでもないかもしれませんが、眼鏡(めがね)とは目の屈折による調節を補正したり、目を保護したりするために目に着ける道具のことです。老眼のためのメガネや近眼のためのメガネ、また乱視などのためのメガネなどもあります。初期の眼鏡は凸レンズを使っていて、遠視と老視を矯正できました。

2.メガネの歴史!

メガネといえば、レンズの発明がその発祥でしょう。レンズと呼べるようなものが歴史に登場したのは紀元前3世紀頃です。

エジプトやバビロニア、ローマ、インド、中国といったあたりで使われていたようです。しかしこのときの用途は太陽の光を集めて火をおこすといった用途で使われており、視力補正のための物ではありませんでした。

♦「リーディングストーン」補正用レンズの最初の発明

9世紀頃、イスラムの科学者アッバース・イブン・フィルナスによって「リーディングストーン」といわれる拡大レンズが発明されます。補正用レンズの最初の発明といえるものです。

このレンズは読書用で、本の上に直接置いて文字を拡大するために活用されました。これは文字の上に直接置いて使用したので、メガネとは区別されています。

♦顔につけるメガネの登場は13世紀中頃のヴェネツィア!

13世紀中ごろになるといよいよ、顔にかけるメガネが登場します(耳にかけて使うタイプはまだまだ先ですが)。

登場するのはイタリア。当時のヴェネツィアでは高いガラス製造技術を背景に、精度の高いレンズが製造されていました。このメガネは補読器と呼ばれて凸レンズがついていて、縁は鉄や木製で作られ老眼用に使用されました。

♦ツル式のメガネが普及するのは18世紀後半から19世紀初頭!

17世紀になると、ひもを使い耳にかけて使うメガネが出てきます。このつる式メガネはロンドンの眼鏡商エドワード・スカーレットという人物が開発したといわれています。ただし、特許まで取得したものの、実用としては適さず普及しませんでした。

♦19世紀にやっとツル巻き式テンプルめがねが登場!

19世紀になるとパンスヌという鼻にはさんで使うメガネやローネットという手持ち式のメガネが登場します(メガネのフレームに手に持つための長い柄が付いている)。

そしてついに「巻きツル式の眼鏡テンプルメガネ」も登場しました。

20世紀に入ると、2度の世界大戦はメガネの発展にも大きく影響し、実用性を備えた現代のメガネの基本型ができあがります。その後、さまざまなデザインのメガネが開発されていますが、基本はこのテンプルメガネから派生していったものです。

3.日本のメガネの歴史

日本ではいつからメガネがあるのかというと、16世紀半ばの戦国時代に記録があるようです。

当時、周防(現在の山口県)を治めていた大名である大内義隆にキリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルが贈ったのが最初といわれています。あのザビエルが日本におけるメガネの歴史のはじまりに関わっていたようです。

以後、長崎で初めてメガネが作られました。材質はべっ甲、水牛の角、馬の爪などで、京都、大阪、江戸などで売りに出されるようになりましたが、単独で売られたわけでなく他の商品と一緒に並べられていました。

というわけで戦国時代に日本に入ってきたメガネですが。レンズを作るのはなかなか難しかったのか、明治時代に入るまで日本ではメガネは生産されていませんでした。明治時代になって朝倉松五郎という人が政府の命を受けてヨーロッパに渡りメガネ作りを学んだことでメガネが生産されるようになったようです。

また、明治期には、さきほど紹介した「ローネットメガネ」が鹿鳴館の貴婦人の間で流行しました。

4.サングラスの歴史!

♦サングラスとは?

サングラスとは、ご存知のように強い日差しから目を護るためのものです。紫外線をカットしたり、まぶしさを抑えるために使用します。

英語のスペリングから想像すると、太陽光から眼を守る保護具という意味合いを感じられます。サングラスは可視光線透過率の低いレンズを使用し、外から目が見えない仕様のものをサングラスとしています。

♦サングラスの発祥!

サングラスの発祥ですが、北極のあたりに住むエスキモーの人々が太陽の光から目を守るために使っていた遮光器が原型といわれています。太陽光と雪面からの照り返しが強く目を守る必要に迫られてのことかもしれませんね。

また、ローマの皇帝ネロが、エメラルドを利用して作ったサングラスを使用し、剣闘技を観戦したという説もあります。

そんなサングラスが最初に大量生産されたのは1929年のことです。アメリカの事業家が、眼を守るためという光学的な観点から、サングラスを安価に販売したことで一般に普及していきました。

♦1960年代のサングラスはガラス製でカラーも濃かった!

1960年代はシンプルで簡素なサングラスが人気でした。クラシック・スタイルとして現在も人気が高いタイプです。この頃のサングラスのレンズは、主にガラス製で色もグレーやグリーン、ブラウンとなどの色が主流でした。

1980年代に入るとスポーツにも対応したサングラスに人気が出てきます。フレームの種類も多様化し、ナイロンやカーボンフレームなども採用されるようになって、軽くてかっこいいサングラスが入手できるようになりました。

5. メガネフレームの歴史!

♦すべては「単玉眼鏡」から始まった!

メガネフレームは13世紀に発明された拡大用レンズ「リーディングストーン」の周辺を真鍮や鉄、あるいは動物の角などと組み合わせ持ちやすくして、そこに柄をつけた「単玉眼鏡」。これがフレームとしての第一号でしょう。

14世紀になると、2つの「単眼眼鏡」をリベットで固定したものが現れます。15世紀には「ハサミ眼鏡」というタイプが登場。これらの素材は鉄、木、ニッケルなどの合金でした。

♦ひもつき眼鏡は16世紀にお目見え!

16世紀になると「ヒンジ眼鏡」といって、鼻幅に合わせて左右を調整できる眼鏡が登場しました。また、メガネの歴史と少しかぶりますが眼鏡にひもをつけて耳にかける「ひもつき眼鏡」も普及しました。18世紀になると、テンプルの延びる「つる巻き眼鏡」が発明され、蝶番(ちょうつがい)がついて折りたためるようになった金属性の折りたたみテンプルも登場して、現在の眼鏡に近いものになりました。

初期の頃のフレームの素材は、鉄、竹、樹木、べっ甲、皮、象牙などの天然素材でした。また「真鍮、「洋白」といった銅合金も使用されましたが、緑青を出す欠点があり「ニッケル合金」が登場しました。

鉄にクロムとニッケルを加えた「ステンレス」は高い耐食性があり好評でしたが、一部にニッケルアレルギーを起こす人もいるため素材はチタンが活用されたりしました。近年になると、樹脂素材も使われ、綿花や石油由来物を原料とする「半合成樹脂」に樟脳(しょうのう)を加えた「セルロイド」や、酢酸を加えた「アセテート」も使用されています。ごく最近では、ナイロンやカーボンフレームなども採用されています。

まとめ

眼鏡は、光を集めるレンズから始まりました。それを何とか眼鏡というものに実用化したいという先人の工夫は、単玉眼鏡、ひもの眼鏡、鼻眼鏡、ツル巻き眼鏡までたどり着きます。

それは、先人たちの工夫の賜物でした。フレームの材料も鉄や木から始まり、真鍮、洋白とか重い素材が多かったのですが、現在のメガネフレームは樹脂製のものが多く、より軽量で使いやすい仕様となっています。今は当たり前に使用しているメガネですが、歴史を振り返ると改めて視力調節してくれる眼鏡の便利さに感謝してしまいますね。

ストールとマフラーの違いや歴史 ルーツは聖職者の肩掛けとアゴをおおう女性の白い布!

ストールもマフラーも防寒用とか温度調節のアイテムですが、今やその実用性もさることながら、ファッションのアクセントとしてアクセサリー感覚で受け入れられていますね。そんなマフラーとストールは、どのようにして生まれてきたのでしょうか。そのルーツと歴史を探ってみましょう。

1. マフラーとストールの違いとは?

♦マフラーとは?

マフラーは一般的には厚手のウールでつくられた長方形の巻き物で、首に巻いたりえりや肩に掛けたりするものを指します。えり巻きとも言われます。

主な目的は防寒ですが、最近では様々な素材が出てきて、夏でもコットンでできたマフラーを紫外線対策として使うこともあり、その活用シーンは幅を広げています。家に入ったら取らなくては取らなくてはならないので面倒という声る聞えてきますが、首周りや胸元を温かくしてくれるので、冬の健康維持のためには大切なアイテムでしょう。

♦ストールとは?

一方、ストールは英語で「肩掛け」を意味します。ストールは生地自体が薄手です。ショールも同様に肩にかけたりして着用しますが、ショールは四角形であるのに対してストールは長方形で帯状の形をしていますし、生地も厚手です。

ストールは、フォーマルな場でのアイテムとしてイブニングドレスなどと一緒に着用もされます。首に巻くこともありますが、肩掛けとして認識されています。

ただ、最近は男性がこのストールをくしゃくしゃにして、首に巻きつけている独特のファッションにお目にかかることもあります。ストールを、ファッションアイテムとして使用しているのですね。

ストールは、もちろん防寒用に使用されることはありますが、春や秋、ちょっと肌寒い時の温度調節にも使えますし、素材も選べば夏は冷房対策にも使用できます。生地もカシミヤとかウール素材から、レーヨン、コットン、リネンなどいろいろ用意されていますから、四季折々1年中使用できるのが重宝です。それに、軽くかさはらないので携帯に便利です。ちょこっと、カバンなどに入れておけるのもメリットでしょう。

2.マフラーの歴史とは

マフラーの起源については諸説ありますが、15世紀頃といわれています。当時のヨーロッパの女性の中には顔の下の部分を四角の白い布で覆っていた人たちがおり、これをマフラーと呼んでいたのが起源という説が一般的です。

時代は下りフランス革命の時代になると、アゴから首にかけて黒い布を巻くといったスタイルになり、現代の形式に近いものになりました。また、この時代からカシミヤのえり巻きやショールが防寒具として広まり始めました。そして、19世紀になると一般の人にも普及し始めました。

もともとは女性の顔を覆うための布だったマフラーですが、昔は兵士の「戦場における目印」になったり、時には「包帯」のかわりに使われたりと様々な用途で活用されていました。

3.ストールの歴史とは

♦僧侶の肩掛けだったという説と古代ローマの「ストラ」だったという2説

「ストール」という言葉には、一説には衣服の「長着」という意味があります。

古代ローマで既婚の女性が着ていた「ストラ」という肩から足まで体のほとんどを覆う上着がストールの由来であるというのです。

もう一説ですが、中世におけるカトリック聖職者が身に着けていた肩からひざの下まで垂らす肩掛けも「ストラ」と呼んでおり、これが変化したものと言われています。

また、古代ローマのストラが次第に中世の聖職者のストラになってこれがストールになったという両方の説を含んだ考え方もあります。

♦貴族の女性が聖職者の肩掛けを真似正装に

16世紀になると、荘厳な聖職者だけが着用していた肩掛に対しての憧れたためか、貴族階級の女性たちが聖職者の肩掛けをヒントにファッションとして取り入れてしまった記録があります。貴婦人たちは、権威や富裕の象徴として毛皮や光沢のある絹のストールをドレスなどの上からまとうようになったと言われ、それが定着してその名残は現代まで続いています。

今ではこのスタイルが正装となり、女性の正装は「イブニングドレスの上にストールを腕にからませる装い」となっています。

4.日本におけるマフラーの歴史とは?

日本に「マフラー」が伝わったはいつなのか・・・正確な記録はありません。呼び方については、日本では長い間マフラーのことを「エリ巻き」と呼んでいました。

このエリ巻きという言葉から古い文献をたどると、一休和尚が出てきます。「あの一休さんが?」と意外なに思われる人もいるかもしれませんが、1461年に「一休和尚」が詠んだ歌の中に「えり巻」という言葉が登場します。

このことから1461年にはすでに防寒具として「えり巻き」が普及していたことがうかがえますね。

ですがこの「えり巻き」、現代のものとはちょっと違います。確かに、この時代に「えり巻き」という名の防寒具はありましたが、我々が思い浮かべるような首周りのみ温める「えり巻き」は発達しませんでした。というのも、日本では首の保護には頭巾や手ぬぐいと言った物が用いられていたからです。

現在使用されているストールなどについては、明治時代に入り西洋諸国との交流が本格化してから鹿鳴館時代の経緯のなかで肩掛けと呼ばれた「ショール」などが紹介されていきます。

「マフラー」についてですが、初めて日本で発売されたのは明治の初期。1873年に毛皮のえり巻きが販売されました。

5.マフラーとストールの巻き方コーデ

こうした歴史を経て、私達はマフラーやストールを便利アイテムとして使用しているわけです。

防寒や温度調節の手段としてマフラーやストールを活用することはもちろんですが、巻くことでファッションのアクセントにもなります。特に、ストールは薄手ですから、いろいろな巻き方ができます。普通にショールのように使うことはもちろん、エディター巻き、くしゃくしゃ巻き、アフガン巻きなどが定番です。マフラーにもいろいろ巻き方があって肩かけ巻き、ドーナツ巻き、ループ巻きなどの演出も可能です。

まとめ

マフラーとストールの発祥と歴史をざっとみてきました。ストールの起源は、聖職者の肩掛けであったということ、マフラーの起源は15世紀頃ヨーロッパで女性が顔を覆った白い布からきているということでした。

今では、マフラーもストールも私達の生活のなかで欠くことができないアイテムになっています。温かく小顔効果も期待でき、ファッションのアクセントにもなりるマフラーやストール。柄物、無地といろいろそろえるとコーデの幅も広がるでしょう。

カフスボタンは和製語!鎖で繋いだボタンがカフリンクスのルーツ!

カフスボタンは、スーツを着たときにそのセンスをアピールできるのが魅力な男性用アイテムです。ところが、この「カフスボタン」と言う言葉は、和製語で日本でのみ通用する言葉で、欧米ではカフリンクスと言われています。

この名前の由来は英語でシャツの袖口のことを「Cuff」(カフ)と呼び、シャツには2つ袖口があるため複数形になり「Cuffs」(カフス)。その袖口をつなぐという意味でりンクするから、cufflinks(カフリンクス)という名称になります。そのカフリングはいつ頃からあるのでしょうか。その歴史と使い方などを紹介しましょう。

1.カフリンクスとは?

カフリンクスとは左右対で、ドレスシャツなどの袖口を留めるための装身具。カフリンクの形態は、鎖でつないだチェーンタイプのもの、バーでつなぐもの、そして留め金を回して留めるタイプのものなどがあります。

素材としては真鍮やシルバーやゴールドなどの金属素材ストーンやガラス、クリスタルなど、また布製のものなどいろいろあります。アイテムの雰囲気も、ドレッシーで高級感あふれるものもあれば、ポップで遊び心たっぷりの楽しいものや、シンプルでシックなものなど様々です。

2.カフリンクスの歴史

カフリンクスの歴史についての詳細は、現在よく分かっていません。現在通説となっている発祥の地はフランス。時期は17世紀。当時は貴族達が、リボンなどを使って袖口を留めていました。

たまたまどこかの貴族の伊達男が遊びとかおしゃれのために、リボンやレースのかわりに金や銀のボタンを金属のクサリでつないだものを使うようになったのが、カフリンクスの誕生秘話です。こんな何気ない出来事から、カフリンクスの歴史が始まり定着していったのですね。

実はカフリンクスと組み合わされるのが最も多い袖形は、フレンチ袖でした。というのも当時、袖とエリは取り外せるようになっていましたが、フレンチ袖は二重になっていて固く厚いために、どうしてもカフリンクを着用しなければならない事情があったのです。

こうした背景もあって、主にフランスの上流階級の間でカフリンクスは広まり、上流紳士たちは華やかなシーンにカフリンクスをつけることがステータスとなり、少しづつブームが拡がっていきました。はじめはブルジョアや貴族などの上流階級のファッションでしたが、歴史が下るにしたがってカフリンクスは広い層へと浸透していきました。

特にタキシードなどの正装服を着用した時に、欠かせない装飾アイテムとなったのです。19世紀になり産業革命によって量産体制が整った後は、一般市民にも購入できるものになりました。

しかし、現在主流となっているスウィヴル式と呼ばれるバッキング部を倒して袖口に着けるカフリンクスは、1930年以降に発案されたものです。

3.カフリンクスの装着できるシャツ

カフリンクスでシャツを留めるためには、袖の両端にボタンホールが開いていなければなりません。カフス(シャツの袖口)は片方に付けられたボタンで留めるシングルカフスでは装着することができません。

両端にボタンホールが開いたダブルカフスならばカフリンクスを着けることができます。

そしてもうひとつ、コンバーチブルカフスと呼ばれるタイプのシャツがあります。これには通常のボタンとボタンホールに加えて、ボタンの横にボタンホールが開けてあります。これはボタンでもカフリンクスのどちらかでも使用して袖口を留めることができるタイプです。


ドレスシャツ 形態安定 長袖 ワイシャツ Yシャツ イタリアンカラー ボタンダウン コンバーチブルカフス


ダブルカフス(フレンチカフス)ドレスシャツ 長袖ワイシャツ メンズ 長袖 ワイシャツ

ダブルカフスはシャツの袖口を折り返して使う袖口が二重になったシャツです。

昔のシャツはえりとカフスを取り外しできるものが基本で、えりとカフスは固いものでしたが、時代の流れで、ソフト・カラーへと変化していったため、柔らかくなったシャツに、カフスを二重に折り曲げることで重厚感を持たせるうにデザインされたのが、ダブル・カフスの始まりでした。これがフランスで作られていたため、フランスカラーとも呼ばれているのです。こうした理由でフランスでカフリンクスが流行したといえるのです。

ボタンが付いているところに、ボタンホールがないシングルカフスには、カフリンクスは装着できないことになります。

3.カフリンクスの使い方や注意点!

昼間における礼装ではシロチョウガイや真珠といった白色、夜にはクロチョウガイやオニキスといった黒色を着けます。弔事では付けないことが原則です。付ける場合は黒のものを装着することです。

また、カフリンクスを付けたときは、派手なネクタイピンと合わせないように注意します。せっかくのオシャレな雰囲気が損なわれる可能性があります。カフリンクスには時計をきちんと合わせるとバランスがとれます。カフスをしたらボタンは内側に隠すほうがすっきり粋に見えます。気をつけてほしいのが袖口のサイズです。大きすぎても小さすぎてもオシャレにみえないので、適切なサイズを選びましょう。

まとめ

カフリンクスは17世紀まで遡り、初めはゴールドやシルバーのボタンを鎖で繋いでカフリンクスにしていました。これがカフスリンクスの始まりと言われています。産業革命の量産で、誰でもつけられる価格になりました。

袖は人の目に触れやすい場所なので、小さなカフリンクスの存在感は想像以上にあります。